何をやりたいとか、何になりたいとか、本当になかった。何にも。
30代に入るまで、とにかく行き当たりばったりで生きてきた。
ピアノに吹奏楽、歌うこと。音楽は大好きで、それなりに一生懸命やった子ども時代だった。漠然と、そういう世界で仕事をしていくんだろうかと思った時期もあった。
だけど、周りを見れば見るほど自分は普通で、私が言う「好き」は人生を懸けるほどの好きじゃなくて、やっていけたらいいなっていう、趣味の範囲を超えないものだと気付かされた。
才能がある人たち、本気でやっている人たちとの距離を感じるようになった。
大学へは、学校の先生になりたいからと、意志表示なんて皆無だった私が、両親に直談判して進学させてもらった。
娘が「教員になる」という夢を見つけたことに、両親も喜んでくれているようだった。だけれどそれも、中学、高校と恩師と呼べるような先生に出会えたから、私もそういう道を目指したいと、理由づくりが自然にできたからに他ならない。こんな大事な場面でも、私の本気は顔を出さなかった。
だから、見事に落ちた。
4年間が無になった気がした。
でも受かるはずがなかった。自分の熱量が、努力が、周りに比べて全然足りていないことにはとっくに気付いていた。
ここでもまた、中途半端だった。
どうしてこうも、とことんやれないんだろう。
ある程度のところまでしか頑張れないんだろう。
最後まで踏ん張れない自分が嫌だった。
これと言って取り柄もなく、これだけは負けないと言えるほどの能力もない私は、社会に出てからも職を転々とした。
全部それなりに楽しくて、いろんな学びをもらったものの、1つの道を突き進むことができない自分にずっと呆れていた。
だけど、10代20代と、足掻き続けて今、思うことがある。
「道が決まっていない時こそ、世界を広げられる」
転職をする度に、また振り出しか…って、足元が固まらないことが不安だった。
同世代の社会人たちが当たり前に装備しているスキルが、自分にはない。いつまでも浅い自分。
取り残されているような、私だけちっとも前に進んでいないような気がした。
だけど、何をやりたいか、何になりたいかがわからなかったからこそ、何でもやれたんだと今では思う。
何にもない分、できることはどんどんやろうって、役に立てるなら何でもやる!って、いつも前のめりだった。
だから、有難いことに何でもやらせてもらえた。何でもやりすぎて肩書きがいつになってもなかったけれど、唯一無二の何でも屋、それもいいかもしれないと、逆に誇らしく思えるようになった。
そうやって、あれもこれもやらせてもらううちに、なんか自分の向かいたい方向性が見えてきた。
好きなこと、苦手なこと、これだけは貫きたいこと。
何に喜びを感じ、もっと頑張ろうと思えるのか。
無意味に転々としていたわけじゃない。
自分を知るための、道を定めるための、巡回期間だったのだ。世界を、ちゃんと見渡していたのだ。
道が決まっていないことに、目指すものが見えていないことにずっとずっと不安だったけれど、よく考えてみると、決まっていないから冒険できた。見えていないから開拓できた。
世界がぐんと広がった。
見つからないなら、何でもやってみればいい。よく見渡せるチャンスだと思って。
止まらずに、とりあえず進み続けてさえいたら、シンプルで、とても大事な何かがそこに現れると、私は思うんです。