お正月を終え、さて仕事始めだやるぞと息込んだタイミングで、食あたりになった。
心当たりは、おからで作ったバナナレーズン蒸しパンだ。
パッと見、色がちょっと変わったかな?という気はしたけれど、疑いを持つより先に手は口へ動いていた。食べてみると、なんの変化も感じない。匂いも味も食感も、昨日と同じだ。
思い返せば、作ってから5〜6日経っていた頃だったのだけれど、冬だし、冷蔵保存もしているし、きっとよくある変色の類だ、気のせいだ、みたいな感じで、そこまで気にも留めていなかった。おいしかったし万事オッケー、ご機嫌だ。
だがどうだろう。食べてから2時間ほど経った時、体に微々たる変化が起きた。胃のもやもやだ。お腹のあたりも、もやんもやんしている。
だけど、それは吐き気と呼べるようなものではなく、ちょっと違和感があるぐらいの感じだったから、普通に外出もした。
その段階では食あたりを疑ってもいないわけで、お昼に食べたあの変色気味のおからバナナレーズン蒸しパンを思い出すこともなかったし、ちょっと食べすぎたのかなあくらいにしか思っていなかった。
ところが4時間ほど経ち、夕方になる頃には、軽いもやもやははっきりとした吐き気となって、むくむくと大きくなった。
自然と前屈みになってしまう自分を不自然だと認めながらも、食あたりだと断定したくない自分がいた。そう、私は食べることが大好きなのだ。
食べたいものを心置きなく食べられる週末のために生きているような人生なのに、それを失ったらどう生きていけばいいというのだ。私は食べるぞ、食あたりなんて食べて治してやる…!と、少々イカれた思考になりつつも、気持ちは強く持とうと言い聞かせた。
が、夜下痢が始まった頃には「おからバナナレーズン蒸しパンにあたったんだ…」と布団の中でいよいよ静かに悟った。家族には、「そんなに気持ち悪いなら吐いた方が楽になる。指を突っ込んで吐けないのか」と言われるも、「それは怖い」と断った。
しばらく布団とトイレとを行ったり来たりして、本日20回目くらいの「気持ち悪いよう…」でなんとか眠りについた。
次の日の朝、吐き気と共に目が覚めた。
眠ればきっと良くなる、なんて期待は当然ながら崩れ去り、散った。風邪じゃないのだから当たり前だ。
痛みに強いタイプの私は、頭痛腹痛より何より吐き気がつらい。寝ても覚めても吐きそうで、かと言って吐くのは吐くのでつらい。楽になったかと思えばまた気持ち悪くなって、その激しいウェーブは精神にも堪える。
外に出れば、見知らぬ誰かの目の前で盛大にリバースなんてこともあるわけで、そういう、自分では止められない何かが体を支配している感も、ちょっと恐怖だ。
そんなに吐き気を避けたいならば、食べ物には十分すぎるほどの警戒心を持たなければいけないのだが、今回のようなことが時に起こる。何が原因だったのか、冷静に分析してみたい。
そもそも、私は作り置きするのが好きだ。
料理自体はそんなに好きでもないのだけれど、お腹が空いた時にパッと食べられる食料たちが冷蔵庫で静かに鎮座していると安心する。
毎日ちょこちょこ作り、大体だが常時5〜6種類の精鋭をスタンバイさせている。油揚げ入りの切り干し大根、いんげんとにんじんの胡麻和え、中華春雨サラダ、がんもどきの煮物、ブロッコリーと玉ねぎのたまごマヨサラダなどなど、いろんな味が楽しめるように工夫している。
切らさないように作っていくスタイルなので、当然ながら古いものから消費するのが掟である。
が、今回の食あたりの原因となったであろうおからバナナレーズン蒸しパンは、無意識に「食べるのがもったいない」という気持ちが働き、なかなか手をつけなかった。
実は、私の中でおからバナナレーズン蒸しパンは、手間をかけた珠玉の一品である。
ざっくりとした工程で言えば、「量って混ぜてレンチン!」の3拍子で済むものなのだが、この「量る」という行為が私にとっては特別な作業だ。他の料理で、まずキッチンスケールを引っ張り出すことはない。大雑把な性格なので、分量が命とも言えるお菓子作りの時でさえ渋るくらいだ。渋った時は当然良い出来上がりにはならないし、明らかに失敗作と言える見た目でオーブンから出てきたりする。
おからバナナレーズン蒸しパンもそういう意味ではお菓子の類で、おからの分量を間違えると、ふわふわにならずかたく仕上がったり、べちゃっと水っぽかったりしておいしくない。
目分量厳禁のパン。それがおからバナナレーズン蒸しパンだ。
そして、目分量で作れるものしか作れない人。それが私だ。
じゃあ、手間をかけてまでなぜおからバナナレーズン蒸しパンを作るのか。
それはやっぱり、大好きな「パン」を罪悪感なく食べられるという、夢のような一品だからである。
レンチンで作れる蒸しパンにはいろいろあるけれど、私は潰したバナナとおからをベースに、豆乳で作っている。
なんだろう、バナナとおからって、特急列車で「健康駅」に着く気がする。その2つが揃えば無敵!の感が好きだ。レーズンの食感がお気に入りで多少入れるが、追加で砂糖は使わないし、気を使えている感じも気分がいい。
そういうわけで、おからバナナレーズン蒸しパンは我が家の精鋭の1人なのだけれど、手間をかけたものだから、すぐなくなるのは惜しい。なるべく大事にとっておきたい。
そんな「食べるのがもったいない」「楽しみをとことんとっておきたい」という気持ちが、悲しいかな食あたりにつながってしまった。ショートケーキのいちごは最後にとっとく派の精神が、裏目に出たのだ。人生いろいろである。
その食あたりはというと、それから3日間続いた。
ポカリを飲むことと、トイレに行くことだけは立派にこなし、あとは手付かずだった。
4日目、下痢は続いていたものの、吐き気はまた軽いもやもやに戻り、何か食べられそうな雰囲気が出てきた。
治癒も近いな…?と、悪い虫と闘い続けた自分に胸を張ってお粥を食べた。お腹に優しいだろうと鍋もして、野菜も食べた。
すると夜、またあの吐き気に襲われた。治癒の方向に進んでいたかと思っていただけに、ショックで落ち込んだ。
5日目も同じ症状で、昼間は調子が良くて食事もできるのだけれど、夜になると気持ち悪くなってしまう。
もしかして、本当は食あたりじゃなくて、何か別の病気なんじゃ…余計な不安まで押し寄せてきた。
6日目、いよいよ病院に行った。
祝日でも見てくれる内科消化器科の予約を取り、ただの食あたりだと信じる気持ち半分、もうなんだろうとこの気持ち悪さから解放されるんだという決意半分に、勇んで向かった。
人の良さそうなその先生は、30名近くの待ち患者がいながらも、症状を細かく聴き、丁寧に診察してくれた。
そして、食あたりだと思っていたが、出して出して出しまくって、もう悪いものもいないはずなのにまだ吐き気が続くことが不安だ、というようなことを説明すると、
「おそらく食あたりです。吐き気も続いて、水っぽい下痢をしているなら、たぶんまだ悪い菌がいるんですね」と言う。
「こんなに出し続けてるのに、まだ残ってるんですか?」と食い下がると、
「吐いてないところを見ると運よく腸に入り込めた菌がいて、それがちゃんと外に出て、傷ついた腸が完全に綺麗になるまでに10日間くらいかかりますよ〜。腸って10mあるんですよ〜」とのほほんと言う。
「そんなに!?」と思わず突っ込んでしまった。
10m!?という驚きと、10日間!?という驚きで、まるで気心知れた友人に突っ込むかのような口調になってしまった。我に返ったら恥ずかしくなって、「食あたりって結構続くんですね」と取ってつけたみたいなコメントをしていた。
でもそうか。もしそうならまだ菌は中にいて、私はまだ食あたり真っ只中なのだ。下痢も吐き気も正常なことなのだ。
なんだなんだ、それならばどんどん食べて出して治そう。イカれた思考だと思っていたことが、なんと正しかった。人生とは面白い。
吐き気に効くお薬を2種類手に入れ、ただの食あたりだ、怖い病気でも何でもなかった、私は大丈夫なのだとわかった途端、気持ちが大きくなって、足取り軽やかに、スーパーでじゃんじゃん買った。
家族には、「いつものまいたけちゃんが戻ってきて嬉しい」と言われた。どうやら相当弱って見えていたらしい。
私は、治りたい、治してほしいじゃなくて、不安を取り除いてほしかっただけなんだな、と、思った。
お医者さんのお仕事とは、なんと尊いことか。
それにしても、吐き気が強い時に飲む薬がドンペリドン錠って。
良くしたいのか悪くしたいのか、とにかく攻撃力が高そうなネーミングに1人笑ってしまった。
結局ドンペリドンさんにお世話になることはなく、9日目には完治。

作り置きもほどほどにして、3日で食べ切るようになったまいたけでした。