改善愛好家と名乗っている私は、無論、改善が大好きだ。
運動不足解消のために週2日はジムに行くとか、効率よくおいしいごはんを作るために良いフライパンに買い替えるとか、そういう大掛かりな改善も好きなのだけれど、大掛かりなだけにテキトーにはできず調べまくってエネルギーが飛び、お金もじゃぶじゃぶ使うから、ちょっと軽はずみにはできない類だったりする。それよりも、取り出しやすさのために食器棚に並ぶお皿の位置を若干手前にするとか、逆に取り出しにくいようにお菓子をほぼ開けない戸棚の高い位置に置くとか、ちょちょいとやってしまえる改善が好きだ。手軽なのに日々への効果は抜群で、1つ1つの動作に気分が良い。もちろん機嫌も良い。言うことなしだ。
さて、そんな私は30代真っ盛りなのだが、改善に改善を重ね生きる中で、ようやく気付いたことがある。合うもの合わないものは人それぞれだということである。
わかりやすいところで食べ物。ある人はアレルギーが出たり肌荒れしたりするが、ある人は全く出ない。
とまあそこまでの話じゃなくても、お店で同じメニューを食べたにも関わらず胃もたれ度が違う、満腹度が違うみたいなことがあったりするわけだから、同じ人間、同じ今を共有していても個人の差を思い知る。
身体的なところでも短距離走が合う人、長距離走が合う人といて、それは訓練次第で変えられる部分もあるのだろうが、そもそもの体のつくりで短距離向き、長距離向きというのがあって、それも合う合わないの話になるんだろうなと思う。
何にしても、好きとか嫌いじゃなく、一般的に良い悪いじゃなく、自分にとっての合う合わない、何が合って何が合わないのかというのを知っておくのは心地よく生きるために必要なことだ。まとめておいて損ではないことだ。
そういう勢いに背中を押されて、私にとって合うもの合わないものを見極めてみた。今回は合うもの編です。
自分に合うもの
めかぶ
私は2ヶ月に一度ヘアカラーに行くのだが、ロングなもので365日ほぼ例外なく傷んでいる。手ぐしで引っかかり、容赦なくぶちぶち切れ、頼んでもいないのにレイヤースタイルに仕上がっている。
そんなに傷むならカラーをやめれば良いのにと思うのだが、私は典型的な黄色人種で、それも結構強めの方だ。おまけに目の色もどちらかと言うと茶色だから、素の状態でほぼ黄味に構成されているのが私で、ピンクよりもオレンジのチークが馴染むし、ブルーやグレーよりもブラウンのアイシャドーがしっくりくる。
だからとことん黒髪が似合わない。髪だけ取って付けたように浮いて調和のとれない出来栄えになるし、最近は白髪もひょこひょこ現れるようになったからなおさら勇んで染めに行っている。
そんな酷使状態を続けているからさすがに申し訳ない気持ちも出てきて、シャンプーとトリートメントはちょっと良いダメージケア専用のものに変え、トリートメントのやり方も見直した。なるほど確かにダメージのケアができているなと感じる指通りになり、これは良い改善になったぞとほくほくしたが、見た目に出る傷み感にはどうにも歯が立たないようだった。
そんなかわいそうな私の髪に突如、救世主が現れた。ある日のお風呂上がり、いつも通りに髪を拭き、スキンケアをしてさあ乾かそうと髪に手を伸ばしてぎょっとした。…なんだなんだ?随分柔らかいぞ…?なんなんだこれは…?と、ちょっと恐怖を感じるレベルの柔らかさがあってうろたえた。トリートメントが今日はやけに浸透したんだろうか、それとも洗い流しが足りてない…? などと考えてはみたものの、腹落ちしない思いでひとまず乾かす。すると、ごーごー乾かしても柔らかさは健在で、仕上がりの見た目までもが全然違いツヤッツヤだ。はっ!これはもしや…!随分ご無沙汰だった天使の輪っかご登場に興奮した。
おそらくトリートメントの効果ではないだろうと、その日食べた物を思い起こすとすぐに直感した。めかぶだ。髪に良いものの代表として海藻類があるけれど、我が家は家族が好きで普段ひじき煮や切り昆布煮をよく作るが、髪への影響は感じたことがない。いつも食べていなくて今日たまたま食べた物がめかぶであった。納豆とオクラと混ぜて食べたのだ。そういえばめかぶを食べたのなんて何年ぶり…?くらいのレベルだったから、久しぶりの摂取で髪が有頂天になったということは十分あり得る。これは決まりか…?とは言っても半信半疑なところもあったから、1週間くらい続けてぱたっとやめるというやり方で試したところ、食べた日は髪が超やわツヤで、食べていない日はやわノンツヤという結果となり確信に変わった。
めかぶについてざっと調べたところ、わかめの茎の部分をめかぶと呼ぶらしく、どうやら葉であるわかめよりも栄養素が高いらしい。髪の成長やツヤ保持に貢献し、傷んだキューティクルの補修もしてくれるミネラルやフコイダン、アルギン酸という成分が豊富だそうで、あのヌメヌメは良さそのものだ。こんなにダイレクトに髪が影響を受けているところを考えると、私の髪にはめかぶが合う、必需品ということで間違いないだろう。気付いて以来、我が家の冷蔵庫には必ず鎮座している。
それにしても、わかめとして存在している時にはあの茎の部分が固くて食べづらくて、お味噌汁に入っていたらちょっとやだなと思うのだけれど、切り離して刻んでめかぶとして存在しているとおいしく食べられるのだから不思議だ。
乳酸菌
私はもともと牛乳以外の乳製品が大好きで、小学生女子の頃流行ったプロフィール帳の好きな食べ物欄にヨーグルトと書いていた時期がある。家は決して裕福ではなかったけれど、冷蔵庫にはブルガリアヨーグルトやアロエヨーグルトがいつも買ってあった。
大人になってからは、手軽に小腹を満たせてかつおいしいという理由でカマンベールチーズを常備し、無糖ヨーグルトにハチミツをかけて食べるのがほぼ日課だ。もし、食べ物縛りで前世はなんだと思う?と聞かれたら、チーズかヨーグルトと答えるだろうというくらいありのままのチーズとヨーグルトが好きである。
ただ、乳製品は栄養価が高い分、摂取量は要注意!とされているし、腸を傷付けやすい成分も入っているらしいから、人によっては肌やお通じに悪影響が出る。モデルさんで乳製品は食べないと言う人がいるくらい、結構際どい食べ物なのだ。
ところが私はというと、今日はあまりにチーズまみれだったな〜というくらい食べても何の影響もなく、むしろ腸が整っている感じで心地よく過ごせる。合わない物はわりと早い段階で肌に出るタチだからたぶん合っているんだろうなと思い、好きな物と合う物が一緒なんて嬉しすぎる〜などと浮かれていた。
そんな時、お酒コーナーでふと気になってマッコリを買い、週末の夜家族とNetflixを観ながら陽気に呑んだ。すると翌朝、起きると同時にお通じの感がお腹にあって、おや?と思うや否やしっかり通じた。そんなことはよくあることじゃないため、これはマッコリが何か作用したのではと考えちょっと調べてみると、どうやら乳酸菌のおかげっぽいことがわかった。
そうか乳酸菌か。チーズやヨーグルトが合うというよりは、乳酸菌が私の体には合うのだということがマッコリの登場によって判明した。普段晩酌もせず、焼肉屋に行った時以外で飲むことはないくらいほぼ私の人生には登場しないマッコリであったが、あの時気になって手に取ったのは細胞レベルで合う物に引き寄せられたのかもしれないなと思う。
定期的なチートデイ
子どもの頃から食べることが大好き!という細胞が脈々と流れる私も、30代になってからその気持ち1本で生きることは難しいということに気付いた。
有難いことに痩せの大食いで走り続けてきた私は、毎日どんなに食べても太らない幼少期を過ごし、20代前半までそれで駆け抜けた。ところがアラサーになる頃には食べた分しっかり太るようになり、大好きな炭水化物を手放したのだけれど、30代に入るとそれに加え疲れやすさやあらゆることへの腰の重さが重なってきていよいよダメだと食事改善に本腰を入れた。子どもの頃大人たちがこぞって健康が1番だと繰り返していたのはこういうことかとうなずく。
試行錯誤して辿り着いたのが、定期的にチートデイを入れるハレとケ食事法だ。定期的にというのは具体的に週末、日曜日のことで、それ以外は削いで削いで削ぎまくった形式的な侍飯を食べる。野菜と卵と大豆類が私の普段、ケの食事だ。しかも腹5分目までで潔くやめる。始めた頃は、週1チートデイは頻繁すぎか?とやや不安まじりであったが、1週間単位でのメリハリが私の集中力にはちょうど良く、日曜日のために頑張る6日間はとことん頑張れた。結果、肉も炭水化物も棄権状態でケを走り切ることができるようになり、ハレを存分に楽しめるようになった。この日ばかりは全てを解放し、食べたい物を自由に食べ心身を満たす。そして月曜日からまたカチッとスイッチを切り替える。このリズムが私には合うようだ。
ここに来るまで、腹8分目で適度に好きな物も食べて毎日過ごす、というやり方も試みたことがあるが全くダメだった。運動量が追いつかないから少しずつ太っていったし、内臓がいつもまあまあずしっとしていて、自転車を重いギアで走っているような毎日だった。大食いならではな、食べたい欲をむっちゃ食べることで満たしたいという思いが果たされないから気持ちももんもんとして空回りした。
自分に合う頑張り方を見つけるのは簡単じゃないけれど、見つけられれば無敵モードで闘える。老いゆく未来だって怖くない。太ることもなく気持ちまですこぶる身軽で肌の調子も今が1番良いときてるから、しばらくはこの方法でいこうと思う。
23時就寝
昔は夜型だった私も、今は23時に寝て6時から元気に活動し出す朝型人間だ。単純に計算すれば7時間睡眠で、じゃあ7時間寝られれば絶好調なのかというとそうではない。これが23時半〜6時半だと全然ダメで、まぶたや体が重かったりして昼間ぼーっとすることがあるし、そのリズムが続くと疲れが溜まりやすくいろいろ捗らなかったりする。
記録をとりながら明らかになったのが、「何時間寝るかよりも何時に寝るかの方が重要である」ということだった。
私の場合、23時10分に寝られればギリギリ好調を勝ち取れるのだが、23時20分くらいだともうアウトで、寝覚めがしゃきっとしなかったりよれよれと頼りない1日を過ごし、なんだか調子の上がらない日だったなと大して頑張れていないのにげっそりしていたりする。逆に23時に寝られればたとえ5時起きでもしゃんとできるし1日元気いっぱい過ごせるのだから、睡眠時間じゃなく就寝時間なんだよなあやっぱりと、自分の体に摩訶不思議感を抱かずにはいられない。もともと寝るのは大好きだけれど、わりと短眠でも平気なタイプの人間だからそれが関係しているのだろうか。
1つ付け加えておくと、寝る1時間くらい前、私の場合22時くらいからスマホを大人しくさせておくと入眠がうまくいく率が高い気がしている。脳の興奮を抑えられるからという理由なのかと思うが、この辺りの感覚はあまりつかめていない。何にしても、せっかく布団に入ったのに眠れないな〜とギラギラするのがどうも苦手だから、基本20時〜23時は仕事をするが最後の1時間はなるべく本を読んで過ごすようにしている。
今は23時就寝がちょうど合っている私も、この先歳を重ねるにつれ、22時就寝マスト、21時就寝マストとだんだん早くなっていくのかもしれないが、体の感覚と調子を観察してこれからも調整していこうと思う。
オノマトペ
突然、ここにきてオノマトペ。はい、オノマトペです。
オノマトペとは、パチパチ、ゴトゴトなどの擬音語や、きらきら、やんわりなどの擬態語をまとめた呼び名のことだけれど、これが合うというのはどういうことかを説明したい。
私は、「嫌われる勇気」で有名な古賀史健さんのnoteを愛読しているのだが、とある記事で古賀さんが、「好きな食べ物がみつからない」という古賀及子さんの著書を紹介しており、かわいらしい表紙に飛びつき表紙買いした。そして届いてびっくり。帯には私が運命的なものを感じたヨシタケシンスケさんが、私も「好きな食べ物」は決めあぐねていますが、「好きな文筆家」なら迷わず言えます。古賀及子さんです。とコメントを書いていて、これは読むっきゃないと興奮気味にページをめくった。内容としては、古賀さんが今1番好きな食べ物は何なのかを探し歩いていくというものなのだが、内容もさることながら文章自体に面白みがあって3〜4ページに1回くらいはププっと笑ってしまう。古賀さんの文章にはオノマトペがよく出てくるからか、全体的に柔らかさと軽さがあって、失礼を承知で言えばかわいらしい子どものような印象を持つのだが、なのにちゃんと大人らしい考えとかしこまった表現もあって、その振り幅と言葉の組み合わせが私にはツボであったのだ。
あまりに古賀さんの文章が好き!となったので他の著書も読ませていただくとやっぱり子どもと大人が共存していて、そもそも古賀さんがお茶目でかわいらしい大人だからだと思うのだが、とにかく丁寧さの中にユーモアと無邪気さが溢れまくり、あ〜いいなあと安心感でいっぱいになった。それでとうとう気付いた。私にはオノマトペが合っているのかもしれないと。
生き方のコツを届ける物書きとして活動する中で、そういう内容を世に出すのであれば真面目に堅めに、教科書のような仕上がりにするべきみたいな考えがいつも付きまとっていたから当然オノマトペは脇に置き、おかしみは封印し、シリアスな内容は余計堅苦しい文章になった。正直、書いていて自分が楽しさを感じられず、かといってどう砕ければ良いかもわからずうろうろ中途半端なスタイルでやってきたのだけれど、古賀さんのおかげでオノマトペの魅力に気付き、自分が面白いと思える文章を、読んでいて安心する文章を書いていいんだと思うようになった。そして何より、古賀さんの文章には私も書きたい、早くペンを持ちたいと思わせてくれる力があった。書かなきゃと思わせてくれる文章にはたくさん出会ってきたけれど、心底書きたいと思わせてくれる文章に出会ったのは初めてかもしれない。
そうか、オノマトペだったのか、私らしさは。
封印を解いたら、寝ている時以外は文章のことばっかり考えている。楽しい。

にぎやかな自分
私という人間をわかりやすく例えるなら、アナ雪のアナである。
元気で早口でコミカルさがあり、表情はころころと子どもっぽくて、考えるより先に足が動く猪突猛進型のアナだ。もしかしたらアナ以上に全体的にダイナミックな人間だから、静かなお店にいても相手が驚く話をすればえっっっ!!?と声量大で反応する。瞬発力のリアクション芸が染み付いているのが私で、慎重で冷静、落ち着いた佇まいと話し方、麗しさを人間化したようなエルサとは反対側にいる。
自分がアナのタイプだからか、エルサのような人に昔から憧れた。セーラームーンで言えば水野亜美ちゃん、名探偵コナンで言えば灰原哀、ドラえもんで言えば出木杉くんといったところだろうか。そういう「静」の人間を見てはハッとし、そうあれるように頑張ろうと静かに決意する。
それは大人になっても、こうして30代を生きるほんの最近まで続き、ありたい自分というのは「常に穏やかで落ち着いて話し、何事にも動じず冷静な自分」であった。正直真逆の人間を目指すのはなかなか難しく、頑張ってもあっという間にボロが出てしまっていつも落ち込むのだけれど、歳を重ねるにつれ年相応にというか、子どもっぽくいてはいけない、落ち着きこそ大人の女よという気持ちにも追いかけられていたから、なおさら頑張らねばと勇気を奮い立たせていたのだ。
しばらくしてその勇気が実を結びつつあり、多少はのんびり淡々と、落ち着き払った自分で人と関われる機会が増えた。言うならおっとりキャラというか、せかせかと忙しない自分を登場させることなくいられるようになり、うむうむやれているぞと、ようやく自分の思いと頑張りが報われてきたことに喜びを感じた。
しかし不思議なものでその裏では、これは本来の自分じゃない、こんなの自分らしくない!はんたーい!と、反対運動をする自分もいて、おろ?と思った。もし、このままおっとり冷静沈着な私が定着し、そう認識されていったらどうしようと、やや本気で心配になった。本当の私はこんな感じじゃないんです、面白い動きとかもたまにやっちゃうようなひょうきんな人間なんです…!という叫びが奥底でうずうずとしていた。
心の平穏さみたいな意味での穏やかさはやっぱり突き詰めていきたいし絶対にあきらめたくないテーマだけれど、だからと言ってにぎやかさをとっぱらってしまったらそれはもう私じゃないのではないか?にぎやかこそ私の芯の部分で、それを殺して生きるというのはもはや他人なのではないだろうか?
いつも元気だから元気をもらえる、ものすごい反応してくれるから話してて楽しい、いつかそう言ってもらえて嬉しかったことを思い出し、ありたい自分て、「ありたい」って一体なんなんだと考えた。
ありたいとは、自分らしさと憧れの狭間にいて、もがきながらも自分らしさを選ぶことでうまくいくものなんじゃないだろうか。憧れは憧れとして、素敵だな〜という思いをむしろパワーに変え、私は私らしく生きる。そうやって私らしさを尊重してありたい自分を決められれば、スルスルと回っていくものな気がしている。
理想が高めだったり、変わりたい願望が強かったりするとおそらく憧れにぶんっと全振りしてしまいがちなのだけれど、そうすると私みたいに「私は誰を生きているのだ?これは誰の人生なんだ?」ともんもんとすることになりかねない。自分らしさを無視した結果残るのは迷いと苦しさで、どうして自分は変われないのだろう、頑張りきれないのだろうみたいな方面に行ってしまうとそれこそつらいことだ。
何より、私は本来のわちゃわちゃとしたにぎやかな自分をしまい込んでいるのがつらい。私らしくない。性に合わない。それくらい私という人間はにぎやかさの塊なのだということに気付いた。いや気付くの遅いけど。
太陽には太陽の役目があり、月には月の役目がある。太陽が月になれないように、月が太陽になれないように、私も他の人にはなれない。だけどなれないからこそ私にできることがあるのだ。そうだ、にぎやかな自分でずんずん生きていこうじゃないか。

「天から役目なしに降ろされた物はひとつもない」という言葉がゴールデンカムイに出てきて印象に残っていたのだが、ここにきてその意味がじわじわと染みてきて、何がいつ血肉になるかはわからないのだなと人生に思いを馳せた。
