お友だちでもあり、仕事仲間でもある人の恋愛相談を聞く機会があった。
いや、相談じゃなく、報告だ。
別れたから、事の経緯を聞いてほしい、そういう話だった。
普段、ものすごく前向きで、積極的で、いつも太陽の方を向いてまっすぐ伸び続けるひまわりのような人だから、落ち込む姿を見たことがない。傷付くような出来事だってプラスに変える。変えてしまえる強さがある。そんな人だった。
だけど、その時の文面には、珍しくつらそうな雰囲気が漂っていた。
人間だもの、そういう時もあるよね。
私は、とにかく聴き役に徹し、ひたすらつらい感情を共有しよう!と、心の中でスポンジ宣言をした。
実際のところ、その宣言は全く効果を発揮しなかった。そう、理路整然とした報告だったから。それも、「報連相」の報告。
こういう出来事があって、それに対してどう対応して、今こういう事実がある。だから今後はこうするつもりです、以上、という、完璧な報告書だった。
あれ?これって仕事の話だったっけ?と、思わず二度見してしまう時のような感覚になった。
悲しさ、もやもやはあれども、本人にとってそれは通過点でしかないようで、そういう感情云々よりも、この恋愛を踏まえてこれからどうしていくべきかの方が重要だった。
感情の海に浸かっていてもおかしくないような状況で、理性的に分析して、先を見据える姿にはもはや尊敬しかなかった。
だけど、どうしてだろう。ただただ寂しい気持ちになった。
通過点と言われたらそうかもしれないけれど、いろんな出来事に対して、どう感じた、どう思っていたという話がスルーされていることに。
いや、実際あったにはあったのだけれど、そういうことすら、頭で考えたよそ行きの言葉で、その人自身が見えなかった。冷たく感じてしまった。
大人になると、いかに理性的であるかを求められるようになる。
特に仕事面では、感情を出さず、理路整然と振る舞うことが社会人のあるべき姿とされ、過程より結果、気持ちより結論が当たり前だ。自然に湧き上がる感情を飲み込んだり、ないもののように扱うのは、もはや達人の域に達していると思う。
だから何でも結論じみて、機械的になって、本当のことが見えなくなる。
感情に従う人生ではなくて、感情を理性という機械的なふるいにかける人生がいいと思うなら、そう生きなさい。(中略)
神との対話② / ニール・ドナルド・ウォルシュ
だが、そんな機械仕掛けの人生に喜びを求めたりしないことだ。(中略)
理性は、何が「最善」かおしはかろうとする。(中略)
思考はただの思考に過ぎない。理性がつくりあげたものだ。理性が「でっちあげた」ものだよ。だが感情、それはほんものだ。
そう言われてみれば、子どものように、「ただ好きだから」好き!と叫び、のめり込んでいくことを忘れてしまっているような気がする。
付き合いたいから、付き合うために、好きと言う。
結婚したいから、結婚するために、一緒にいたいと言う。
想いが溢れてしまった言葉じゃなく、目的を果たすための、頭で、理性で考えた言葉。
そういう、なんとなく温度がない感じを、たぶん、感情に敏感な人は察知してしまうんだろう。
相手が仕事上のお客さんだろうと、友人だろうと、彼・彼女だろうと関係なく、そこに温度は必要なのだ。愛がなければ繋がれないのだ。
理性的な表現は必要だと思う。
だけど、その根っこにあるのは感情であるべきなんじゃないだろうか。愛であるべきなんじゃないだろうか。
愛についてはまだまだわからないことばっかりだけれど、こうやって愛について考えていると、心の奥の奥の方まで平和で、喜んでいる自分に気付く。
あーきっとこれが自然なこと、自然なあり方なんだな〜って気がしてくるのである。