今日は相方の大きい人がいないから、小さい人と2人でスイミングへ。「まいたけちゃん、今日は話す人がいないからいっぱい観れるね」と、自分に集中してもらえる未来にニヤつくちいかわな人。女の子だけれど、母の方と結婚したいと本気の目で訴える、愛が重たいちいかわさん。やっぱりこの者、私の人生の赤字を、愛情で書き換えに来たらしい。「好き」を、毎日どさどさ納品してくる。
さて、今日は新しく、輪投げを使ったウォーミングアップ。ばら撒かれた輪投げを、潜って取って、先生が持つコーンに引っかける。今日は1人でちゃんと観ているからか、「やってるよ!みてる!?サイン」がすごい。先生側はきっと、集中して話を聞いてほしいと思うのだが、間近にいて、それが「やってはいけないお約束」になっていないのだから、小さい人にはたぶん無理だ。観てくれている人に、きっちり送信する。観客の存在も含めて完結する人なのだ。というわけで、手を振られたら振り返し、口パクで「今からやるよ」のサインがくればうなずく。受信通知は、止まらない。観ている限り、他にそういう子どもはいないから、だいぶ特殊な子に見える。そのうち先生側から、通知の設定頻度を「低め」にするようお願いされるかもしれない。
でも、こういうの難しいな、と思う。観覧席にいながら観ていない自分も嫌だし、かといって、目を離さずに観ている自分も、なんか違う。「観る時間」を楽しむために来ているのだから、スマホにうつつを抜かしているんじゃないと思う自分もいるのだけれど、防犯カメラのように過ごしたら、それはそれでわだかまりが残りそうだ。きっと、ちょうどいいピントがあるのだろう。小さい人とスマホを行ったり来たりしながら、観覧席の正解はもう少し探してみようと思う。
さて、小さい人、水面に対して平行に顔をつけるのはもうバッチリ。だけどどうやら、顔を垂直のまま、頭までざぶんっと潜るのはまだこわい様子。先生と両手を繋ぎ、めちゃめちゃ高く跳んだから、これはいくぞいくぞと思いきや、ちょんと顔をつけて終わり。助走は泡となって消えた。あれだけ勢いをつけても、こわいものはちゃんとこわいのだ。
その練習の最中、小さい人は誰かの真似をしたのか、自分発進なのかはわからないけれど、順番が来ると、先生の顔に水をパシャッパシャッとかけるのに楽しさを見い出してしまっていた。もう何周も、繰り返している。先生はゴーグルをしていないし、たぶん、普通に嫌だと思う。そもそも、今は遊ぶ時間じゃない。教えてもらいに来ている身として、それは違うと伝えねば。心の中で先生に頭を下げながら、だけど一生懸命頑張る小さい人を応援しながら、今日のレッスンを終えた。結局、小さい人は常時オンラインだった。
帰り道。例の件を切り出す。
「柿本先生のさ、顔に水かけるのやめよう」
すると、遠慮がちにこっちを見つめ、もうわかっている顔で「なんで…?」と、小さく答える。
「先生、笑ってるけど、本当は嫌かもしれないよ?ゴーグル付けてないしさ。そもそも、水でパシャパシャ遊ぶ時間じゃないよね?」
とぼとぼ、「うん」とうなずく。
「大好きな柿本先生にこれからも教えてもらうために、あーいうのはやめようね」
少しの沈黙の後、首を縦に振った。
大好きだからこそ、かまいたくなる。その気持ちは、痛いほどわかっていた。だけど、大好きだからこそ、気付かなければいけないことがある。止まらない気持ちを、止める強さに変えて。「なんで!大好きだもん!」と怒る未来にならなかったのは、ちゃんと芽が育っている証拠だと思う。話を聴いてくれた小さい人が、誇らしい。
愛の暴走機関車は、今日またひとつ、ブレーキのかけ方を覚えた。
6/13 (土) 愛の暴走機関車は、今日またひとつ、ブレーキのかけ方を覚えた。

