「豪快に笑う、ぽたぽた焼のおばあちゃんみたいな人」
私のおばあちゃんを一言で表すならそんな感じだ。
私と、3つ違いの弟は、子ども時代、車で15分ほどの所にあるおばあちゃん家に、よく泊まりに行っていた。両親が共働きだったので、夏休みや冬休みはもちろん、なんでもない土日休みにも、お泊まりセットを抱えてお邪魔した。
「おばあちゃーん!来たよ!」
「まあ!よう来たよう来た。はよこっち来て上がれて」
茶の間の戸を勢いよく開け、割烹着と、頭に手ぬぐい姿のおばあちゃんが出てくる。
「座布団敷いて座れて。まーあまた背伸びたんでねんか?」
「この前来たばっかりだよ、そんなすぐ伸びないよ〜」
「そうらかて?なんかまた美人さんになったんでねん?」
「なってないなってない」
そんなやり取りを、飽きずに毎度ゲラゲラとやった。
そこへ、「いいからはよお茶淹れれて」と、抜群のタイミングでおじいちゃんがつっこんでくる。
「淹れますて。あはははー!ほれ、せんべでもなんでも好きなもん食べれて。ふふふ」とまた笑うおばあちゃん。
いつも賑やかで、優しくて、超がつくほど笑い上戸。
大したこと言ってないよ?ってことでも、お腹を抱えながらひーひーと笑いっぱなしになる。その笑い方が私にはまたツボで、結局、2人で壊れたおもちゃみたいに笑い転げ、「あーおっかし」と涙を拭くのがお決まりだった。
私にとって、友だち以上に友だちだったと思う。
大好きなのはそれだけじゃない。
いろんなことを教えてくれた。一緒に経験させてくれた。
特に畑仕事は思い出深い。
農家だったおばあちゃん家には、お米も、野菜も果物も、1年中採れたてのもので溢れていた。ニワトリも飼っていたので、卵も毎日自動生産されるという、もう自給自足の極みとも言える生活だった。あとは牛でも飼っていたら完璧だったんじゃないだろうか。
車で15分走った所に、時代を5つくらい越えたような生活があったかと思うと、どえらいことだったんだなあと今になって思う。
そうやって自分たちの手で作ったものを、おばあちゃんと台所に立って、鼻歌を歌いながら料理する。おばあちゃんから目分量の感覚を学んだし、煮物や漬物、お味噌汁は、おかげさまでわりと人並みな味になっている。と思う。
手が器用なおばあちゃんは、折り紙でも縫い物でも、編み物でも、あっという間にすんごい作品を作ってしまう。
「チクチクと細かい作業するのが好きんがーて」
そう楽しそうに話してくれた。
中学生の時に、憧れの先輩にマフラーを編みたくて、冬休みに編み物教室を開いてもらったのはすごく印象に残っている。実はこの時初めて、私って黙々と作業するのがめちゃめちゃ好きなのかもしれないと、自分の中の可能性に気付いた出来事でもあったからだ。
あの長い長いマフラーには、真心と、未来への希望が染み込んでいた。
お正月の恒例行事、餅つき。何度見てもたまげてしまうのだが、雪深い地にも関わらず、おじいちゃんは上半身裸で、白い息を吐きながら汗を流して餅をつく。おばあちゃんは、えっいつ?!ってスピードで手水しながら相の手をする。なんかもうすごい光景なのだ。
これだけは食べる専門な私だったけれど、長年連れ添う夫婦の阿吽の呼吸っぷりを見て、鳥肌が立ったのを覚えている。
こんな風にエピソードをあげていたら終わりがこないのでやめにして、とにかく、生きることの全てを教わった。
私の貴重な子ども時代は、大半おばあちゃんと共にあった。
頻繁に会いに行けるのに、帰る時は、迎えの車の後部座席でいつも小さくなって泣いていた。大好きだった、本当に。
大学、社会人と、当たり前のように地元を離れたけれど、ふとした時に、これっておばあちゃんに教わったことだなーと嬉しくなって、心が保温される。
あの難しい思春期に、かろうじて私がぐれなかったのはおばあちゃんのおかげとしか言いようがない。うんと大きい人だった。
そんなおばあちゃんが、一昨年癌になった。
余命2ヶ月。この冬は越えられないだろうという話だった。
私は遠くの地にいたので、「遠いから来なくていい。コロナにかかる可能性もある」とお父さんに反対されたが、それを押し切って会いに行った。面と向かって、いや文字ですら、お父さんに自分の気持ちをちゃんと伝えたことなんて、今まで一度もない。だけど、言わずにはいられなかった。後悔しないために行くと。
数年ぶりに会ったおばあちゃんは、もう別人だった。
ぽちゃぽちゃしていた体はほっそりちっちゃくなって、髪は真っ白だった。何より、よう来たねぇと飛び出してこない。横になっていた。
だけど、会話するとやっぱり変わらないおばあちゃんで、私は何が何だか、話しながら正直気持ちがついていかなかった。
これが最後になるかもしれない。
その言葉が頭に浮かぶ度、泣きそうで、ありがとうを1万回伝えても足りないのに、おばあちゃんがいなくなることをここで認めるようで、結局言えなかった。
無理しないでね、またね。それが精一杯だった。
それから、おばあちゃんは、1年も長く生きた。あんなに弱っていたけれど、「もうダメらて」と弱気だったけれど、ちゃんと生きようとした証だった。
おばあちゃんの持ち前の陽気さに、病も太刀打ちできなかったに違いない。
おじいちゃんの意向を尊重して、近くにいる身内だけでひっそりとお葬式をすることになっていたので、私は参列できなかった。
だけど、あの時伝えられなかった全てを、手紙に託した。
一緒に台所に立つのが楽しみだったこと。
おばあちゃんが作る里芋の煮っ転がしが世界一だったこと。
倉庫にこもってぜんまいの綿取りをしたのが、山籠りみたいで楽しかったこと。
おじいちゃんとの夫婦漫才みたいな掛け合いが大好きだったこと。
夜、眠れずに落ち着かない私の視界を、そっと手で覆ってくれる優しさが大好きだったこと。
私の心の拠り所だったこと。
おばあちゃんみたいな、強くて、優しくて、楽しくて、あたたかさをくれるおばあちゃんになりたいと思っていること。
私にとって、お母さん以上にお母さんだったおばあちゃんの最期を、見届けられなかった後悔がないわけじゃない。
「もう会えない」の破壊力に、何度だって涙を流すと思う。
だけど、この思いを、言葉にして届けられた事実は大きかった。
ただただおばあちゃんのことを想って、紙に向かった時間は、離れていても2人の時間だった。
ありがとうが、頬を伝い続けた。
スーパーでぽたぽた焼を見かける度に、私は、豪快に笑うおばあちゃんと、自分の未来を重ねるのだろう。
私たちは似たもの同士。
いつかまた、一緒に笑い転げようね。